When i climbed up to Mt.Kinabalu with 3nights 4days,
my guide gave me everything which i didn't have.
His baggage was really smaller than me.
But his bag had many many items to live in jungle.
As he is a guide, he never attach a hand to a tourist-oriented meal.
i said to him 'i want to thank you in some way'.
guide: i can not get from my guest ,never.
but but, if if you don't mind, could you give me a water?
→ : Of course!! Don't hold back.
He drank just a little water.
'Thank you. Thank you so much . i'm enough.'
He smiled at me.
'i'm enough.' is better than 'anytime,anywhere and all you want.'
i think.
2013年9月25日水曜日
2013年6月5日水曜日
麦秋
田舎のどの水田も、そろそろ田植えを終える。苗代で籾1粒から発芽した稲の苗は、水田に植えられてから日の光を受けて、茎を増やし葉を伸ばして日に日に大きくなる。初夏の景色である。この時期のことを二十四節の小満(初夏にあたる)と言う一方、別の言葉で麦秋とも呼ぶ。
田を見渡すと、稲に混じって大麦がある。3月に植えられた大麦は、減反政策によって空いた場所で大きく成長し、今は頭を垂れる稲穂よろしく金色に輝いて刈り取り間近。この麦畑が中秋の、稲刈り前の景色に似ている所から今の時期を麦秋と呼ぶ。景色を見て暦を思い出すとき、私は日本人の時間感覚とその時々の観察眼の鋭さを感じる。
中東や西洋では、早くから今の「秒」に類する単位があった。太陽の日周運動にかかる時間を24等分して時間を、それを60等分して分を、さらに分を60等分して秒とした。これが17世紀になって時計の文字盤に秒針が登場する。同じ頃、江戸時代の日本には、西洋のように小さな区切りではなく、大きな区切りが中国からもたらされた。1年を24等分する二十四節気である。もともと室町時代から、日本では1日を12等分して干支をあて、さらに4刻を組み合わせて四十八刻とした時法を用いていた。西洋が1日を秒まで細かく区切った頃、日本はそれとは逆に、時の流れを大きな括りでとらえるようになった。室町から江戸時代まで1日の最小単位は、中東・西洋で1秒であったのに対し、日本では一刻=約30分=1800秒だった。
西洋に比べてかなり長く大雑把な時の流れの中にあって、日本人は時間に対して鈍感であった訳ではないと思う。季節の移ろいをじっと観察し、一瞬に集中し、二十四節気を3等分して七十二候を付け、歳時記のように季語を集めただけで辞書ができるほどの言葉を作った。これができたのは、ゆっくりとした時の流れの中で何もない時間があったからではないだろうか。日の出とともに起き、人が手で耕すには広すぎる田畑を1鍬ずつおこし、作物が育つのを待ち、天気を感じて苗を植え、きちんと始末をし、日没とともに眠る。この生活の中で日の光や葉の色、生き物の音、月の影から時を感じ、自然の中にある自分と対話する時間は今に比べて遥かに多かったのではないか。今と比べて圧倒的に物が少なかった時代にあって、大きく捉えた時間の中で自分を見つめ、想像力を働かせて他者を慮るために一瞬に集中する。途方も無く難しいことであるが、少しずつこんな空の何も無い時間を取りたいと私は思う。そんな時間の中から得るものがあったとすれば、それはきっと細切れの時間をかき集めても決して得られない、尊く豊かなものであろう。
「人間はひとりひとりがそれぞれ自分の時間を持っている。そしてこの時間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、生きた時間でいられるのだよ」ミヒャエル・エンデ作「モモ」の中の賢者の言葉が、麦のように輝いて思い出される。
田舎のどの水田も、そろそろ田植えを終える。苗代で籾1粒から発芽した稲の苗は、水田に植えられてから日の光を受けて、茎を増やし葉を伸ばして日に日に大きくなる。初夏の景色である。この時期のことを二十四節の小満(初夏にあたる)と言う一方、別の言葉で麦秋とも呼ぶ。
田を見渡すと、稲に混じって大麦がある。3月に植えられた大麦は、減反政策によって空いた場所で大きく成長し、今は頭を垂れる稲穂よろしく金色に輝いて刈り取り間近。この麦畑が中秋の、稲刈り前の景色に似ている所から今の時期を麦秋と呼ぶ。景色を見て暦を思い出すとき、私は日本人の時間感覚とその時々の観察眼の鋭さを感じる。
中東や西洋では、早くから今の「秒」に類する単位があった。太陽の日周運動にかかる時間を24等分して時間を、それを60等分して分を、さらに分を60等分して秒とした。これが17世紀になって時計の文字盤に秒針が登場する。同じ頃、江戸時代の日本には、西洋のように小さな区切りではなく、大きな区切りが中国からもたらされた。1年を24等分する二十四節気である。もともと室町時代から、日本では1日を12等分して干支をあて、さらに4刻を組み合わせて四十八刻とした時法を用いていた。西洋が1日を秒まで細かく区切った頃、日本はそれとは逆に、時の流れを大きな括りでとらえるようになった。室町から江戸時代まで1日の最小単位は、中東・西洋で1秒であったのに対し、日本では一刻=約30分=1800秒だった。
西洋に比べてかなり長く大雑把な時の流れの中にあって、日本人は時間に対して鈍感であった訳ではないと思う。季節の移ろいをじっと観察し、一瞬に集中し、二十四節気を3等分して七十二候を付け、歳時記のように季語を集めただけで辞書ができるほどの言葉を作った。これができたのは、ゆっくりとした時の流れの中で何もない時間があったからではないだろうか。日の出とともに起き、人が手で耕すには広すぎる田畑を1鍬ずつおこし、作物が育つのを待ち、天気を感じて苗を植え、きちんと始末をし、日没とともに眠る。この生活の中で日の光や葉の色、生き物の音、月の影から時を感じ、自然の中にある自分と対話する時間は今に比べて遥かに多かったのではないか。今と比べて圧倒的に物が少なかった時代にあって、大きく捉えた時間の中で自分を見つめ、想像力を働かせて他者を慮るために一瞬に集中する。途方も無く難しいことであるが、少しずつこんな空の何も無い時間を取りたいと私は思う。そんな時間の中から得るものがあったとすれば、それはきっと細切れの時間をかき集めても決して得られない、尊く豊かなものであろう。
「人間はひとりひとりがそれぞれ自分の時間を持っている。そしてこの時間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、生きた時間でいられるのだよ」ミヒャエル・エンデ作「モモ」の中の賢者の言葉が、麦のように輝いて思い出される。
なぜ、勉強するのか。
子どもによく聞かれます。何で勉強するのか。
はぐらかしたくないので、今の自分なりの答えを忘れないように残します。
豊かさってものについて
理科って、勉強して意味あるんですか?何で勉強するんですか?
たくさんの質問を受けた中で、一番困った質問です。私が生徒だったとき、先生からは、こう答えていただきました。
「できないことに挑戦して、できることを増やすんだ。」
「心を鍛えるんだ。」
「勉強をしておくと、選択肢が広がるし、損はしない。」
でも、私の先生からの受け売りだとズルいので今年感じた、私なりの答えを書きます。
「豊かになるから」
授業中に流星群の話をした時、「いつ、どこに見えるんですか?」「何時に起きて見ればいいですか?」と楽しそうに質問に来るあなたたちを見て思いました。
この子は今夜、空を見上げるんだろうなぁ。もしかすると家族と一緒に流れ星を探すかもしれない。
その時見上げる空は、今まで見たことのない特別な空です。何せ、その夜空からは、星が降ってくるからです。
私自身、勉強という言葉は嫌いです。いやでも強いられるっていう印象を受けるからです。だらか学習と言います。学習をすると、新しい発見が必ずあります。知識を得ることでかもしれないし、経験を通してかもしれない。自分になかったものを得て、今まで知らなかったことを知って、今までとは違った見方ができる。気づかなかった事に気づき、楽しみが増え、それを他者と分かち合って、皆で楽しむ。もしかしたら今まで知らなかった自分を見つけられるかもしれない。これは、モノやお金とは違った、大切な、確かな豊かさだと思います。これから先の君たちの人生が、たくさんの学びがある、実り多き、豊かなものになりますように。
2013年5月11日土曜日
天姿婉順(てんしえんじゅん):冲方丁「光圀伝」より
だから、婉美、婉麗、婉愛、どれも「やさしい~~」となり、
自分の思うまま、正しいと感じるものを目指して、
同じ気持ちを持つ人たちと共感しながら進む人。
*******
いい言葉がたくさん出てきました。
知らない言葉もたくさん出てきました。
漢字で書かれていても聞いたことが無い言葉に
孔子や孫子や
和歌も漢詩もありました。
読むことはできても
意味が分かりにくかったり
見当すらつかないことが
もどかしく感じました。
日本語で書かれていて
分からない言葉を無くしていきたいなぁと言う思いから
分からない言葉が出てきたら辞書を引いて
昔使った国語便覧を見て漢語林を持ち出して‥‥
1冊の本を読むことに対して
今回ほど時間を使ったのはいつぶりか分かりません。
でも
時間を使った甲斐あってか
登場人物の動作の1つ1つや
小さな気持ちの変化が
鮮やかになったような気がします。
*******
この本とほぼ同時に
さんの軍配者シリーズと
元灘高校国語教師の橋本武さんの本を並行して読み進めて行く中で
共に疑問が浮かびました。
この時代の人は
今のようにノートをとる訳でもなく
参考書がたくさんある訳でもないのに
どうやって膨大な知識を身につけられたんだろう
ということです。
羨望もあります。
自分の職業柄というものあるかもしれません。
本の中の登場人物たちは
新しいことを学ぶときには
数冊しか無い本をじっくり読み込むことと
師匠と話をすることを
繰り返していました。
その中で
忘れない知識をたくさん得て
その成果として
青史に列せられるようなはたらきをしました。
僕自身
学生時代を振り返っても
新しくを学んだ事柄の中で
少しの間でも覚えていることができた知識は
数えるほどしかありません。
自分で文章や言葉をよく考えて十分理解して、味わうこと
学生時代と今の自分に足りていなかったことはこれだと思いました。
かつては無くて
今有るものといえば
本 参考書 ノート 筆記用具 それらを合わせた環境。
他にもあるかもしれません。
ただ、その逆に、
学習をしていく中で昔は有って今は無いものの筆頭は
自分で咀嚼をする時間
なのだと思います。
登場人物たちは
分からないものは分からないと言って
教わり、考え得たものは使い倒して
もし間違っていたら、その恥とともに記憶をして
次に繋げていました。
また、自分の持っている知識に対しては本当に正直で
自分にまだない知識には謙虚で敬意を持っていました。
*******
正直でいること
謙虚であること
僕が教える立場にいて
その人の賢さを感じるのは
分からないことを、こうですかと質問してくる人です。
その人は習ったことを使って、どうにかして問題を解こうとします。
模範に沿った回答でも、自分で回答にたどり着くことができて
同時に
自分が教わったことをまだ分かっていない人に教えることもできる。
自分で咀嚼したからこそ
人の頭は鍛えられるんでしょう。
正直であること
謙虚であること
ついつい横着になる自分を戒めながらこれから
自分が学んだ時間の半分は
静かに考える時間を取ろうと思いました。
天と地の間(はざま)にあるもの、悉(ことごと)くが師である。 宮本武蔵
2013年4月27日土曜日
What we learn in univ.
東京造形大学の入学式にて、諏訪学長の式辞。
これを学長の顔を見ながら聴けた新入生は幸せものだと思います。
大学がどういう場所か。
何を学ぶところなのか。
何のために行くのか。
僕は、あまり深く考えていませんでした。
仕事をして、少し離れて、
諏訪学長の言葉を見ると、納得できることばかりです。
自分は大学生のとき、価値を分かっていなかったのかもしれません。
この勉強は役に立たないんじゃないか。 とか
勉強するよりも、アルバイトでもインターンでも、働いて経験を積んだ方がいいんじゃないか とか
大卒であれば損はしないんじゃないか とか
先を見ていたつもりだったのかもしれません。
大学生に戻りたいとは思いませんが、
諏訪学長が仰るようなことが納得できていたら、
少し、変わっていたかもしれません。
変わっていないかもしれません。
でも、いま、学長の文章を読めたことで、自分にとってプラスになりました。
下に、一部引用させていただきます。全文も是非。
***********************************
一体何の役に立つのか分からなくても、
大学においてはまだだれも知らない価値を探究する自由が与えられています。
「普通はそんなことはしない」ことを疑うとき、
私たちは「自由」への探究を始めるのです。それが大学の自由。
私という小さな存在が、
いったいそのような広大な社会とどのように関われるだろうか?
と思わず立ち止まってしまうかも知れません。
しかし、社会は私たちひとりひとりのこの小さな現実と無関係に、どこか別の場所にあるのではありません。
************************************
GOALS
目標 宮澤 章二
この目標を達成できたら自分はこうなっている
If i can achieve this Goal, I will glow.
自分が決めたことのために頑張る
I work haed for what I had decided.
目標かあるから頑張れる
I can work hard because there is my Goal.
すっとこう思ってきました
I`ve thougnt this way is true.
間違っているとは思いません
I don`t think it is wrong.
でも。
But.
ある人は言います。
He says,
自分が近づいていくだけじゃなく
目標の方から、
自分がたどり着きたい向こう側から
自分を救ってくれる
Not only approaches toward the Goal,
Your Goal could save you.
From the Side Where there is your Goal ,
The Goal shall deliver you.
これは新しい発見でした
This was a new discovery.
目標 Mokuhyou 宮澤 章二 Syouji Miyazawa
一言一言噛み締めながら
読み進めていこうと思います。
「心は見えないけれど、心遣いは見える」
ってCMがちょっと前にありました。
少ない言葉でこんなにたくさんのことが言えるのかと
驚きました。
難しい所もある反面、
日本語は凄い言語だなぁと改めて感じました。
限りあるものより、限りない心へ
2013年4月27日
今日から少しずつ書いていきます。
ブログ名は僕の尊敬する祖父の言葉です。
目指すものは
心を豊かにすること
10年前の自分と10年後の自分に向けて、言葉を残すこと。
2013年は、ぐらぐらの軸が、なんとか落ち着いたところで、今日から。
自分が一番、おもしろいって感じること
楽しそうって思ったことを片っ端からやっていこう。
そう決めた初日にこのブログは生まれました。
ここでの話題が、
みんなで楽しめるようになる日を目指して。
これから、どうぞよろしくお願い致します。
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